2005.10.01
 太陽がだいぶ傾きかけた夕方、実に1ヶ月半ぶりにカメラを持って近くの河原に出かけました。赤とんぼが乱舞し、モズの高鳴きが響き渡りすでに秋の気配が漂っています。

 土手に座ってのんびり考え事をするのも1ヶ月半ぶりです。断片的に「命」について、いろいろと考えました。

 もう20年ぐらい前だと思う、いまでもはっきりと覚えているが仕事で屠殺場(当時はそう言っていました)へ取材に行った時、あまりのショックにしばらくシャッターが押せなかった。写真を撮るプロがどうしてもシャッターを押せない。涙と吐き気を押さえながら震える手で、今ここにある現実を斬るがごとくシャッターを切ったことが今でも忘れられない。

 これをお読みの皆様は屠殺場と聞くと眉をひそめるかも知れない。しかし、「人が生きていくため」に、これを読んでいる今日も確実に形は違うが「トサツ」が行われています。悪人がマネーロンダリングをするように、殺されて「肉」にされた物体は流通という行程で良心の呵責を浄化し「食肉」となってスーパーの売り場に並ぶのです。これが人が生きていくと言うことです。

 人は子供の時、何の罪の意識もなく昆虫採集、ザリガニ採り、魚採りなど遊びと学習の中でたくさんの小さな命を奪って育ちます。そして、家族同様になった動物たちの死によって悲しみを感じ、本当の命の尊さを学びます。何故、人は愛するものを失うと悲しいのか。何故。人が人を殺してはいけないのか、何故、人はゴキブリを殺しても平気なのか、何故、人は野鳥を殺すと怒るのか、何故、人は家畜を殺しても平気なのか・・・。

 野生の生き物たちは遺伝子の中に生きていくための叡智が蓄積され、本能として実行されています。しかしヒトの脳はあまりに進化したため、そうした叡智が感情というものの中に埋もれてしまい、それを補うものが必要になりました。それがモラルというものの正体だと思います。宗教の基本理念にも通じています。しかし、そのモラルは非情に脆く、ともすると偏ったものになってしまうこともありますし、人や国によって微妙に違うものとなることもあります。

 絶滅の危機に瀕している大変珍しい野鳥を撮影したい気持ちと保護したい気持ちは、野鳥カメラマンの方なら感じたことはあると思います。ある不注意なマスコミ報道によってその営巣地がわかってしまったとき、カメラを持って撮影に行くか、行かないか、とても迷うと思います。大抵そのような絶滅の危機に瀕している野鳥は営巣中とても神経質になっていて、必要以上の人の干渉があると営巣を放棄したり繁殖に失敗してしまう傾向にあるようです。何の配慮もせず無神経にカメラを持って行き素晴らしい写真が撮れたとします。もし、その結果雛が死んだり、生まれてくるはずの雛が生まれてこなかったとしたら、その写真は雛殺しの素晴らしい証拠写真とはなりますが、芸術写真にはなり得ません。たとえそれが学術的な写真であってもです。

 合法的にかすみ網を使って調査をしている現場に行くと、野鳥を目の前で見ることが出来、うまくすると触れるかも知れません。危険は少ないとはいえ、場合によっては野鳥を傷つけたり殺してしまう捕獲方法であるかすみ網によって捕まえられた野鳥を見たり触ったりすることの意味はいったい何だろう。捕れた魚を食べるために行う地引き網を曳いたりするイベントとは基本的に違うはずです。もし、調査された野鳥が傷ついたり、死んだり、本来あるべき寿命を全うできなかったとしたら、手に感じた野鳥の温もりはその現場にいたという証拠として記憶に残るだけです。

 とりとめもないことを考えていると時間は、あっという間に過ぎてしまいます。もう、夕日が沈み夕焼けの色があたりに満ちています。遠くの木の天辺に留まったモズが夕日に向かって飛び立ちました。

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野鳥の標識調査に関して写真家の和田剛一氏が取り組まれております。ご興味のある方・・野鳥に興味がある方は訪れてみて下さい。(シンボルマークが貼られましたね)

カワセミ日記」の中島さんのサイトでも標識調査問題を取り上げていますので、是非ご訪問して下さい。(ブログが訳の分からないことになっています??)

日記を読んで標識調査に関心を持った方、直リンクで結構ですので是非お友達に紹介をして下さい。鳥たちの明るい未来のため、少しでも多くの方に標識調査に興味を持ってほしいと思います。

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